ゲームプレイが​物語に​影響を​与える​こと、​その​逆は​可能か

2025-03-24
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参加しているDiscordでの議論に触発されてアイデアが浮かんだ。デジタルゲームの物語表現とその受容について、もしデジタルゲームにのみ可能な特徴がプレイヤーの物語世界(虚構世界)との頻繁なインタラクションと物語世界に現れるそれらに対する反応の可能性、つまり介入できることとその大きさ・多さなどによるとすれば、詳細なゲームプレイの事実の系列から物語を書くことは可能だろうか。それはプレイヤーが感じたものと同じになるだろうか。

その前に、デジタルゲームにおける物語表現の特徴とは。 小説的なゲーム、映画的なゲームという評を受ける作品がある。前者はインタラクティブノベルや項目選択式のアドベンチャーゲームのシステムを採用しているようでまさにそのままであり、後者はプレイヤーの介入が全くないカットシーンからQTEなど、ある程度プレイヤーの行動を制限することで制作者が表現したいものを精度よく見せることが特徴となっているものが多いと思う。 これらの特徴は、デジタルゲームという媒体じゃないと不可能だというわけではない。分岐がある小説は紙媒体ですら実験的に行われている。可能であるということがその媒体での表現一般において頻出だったり高い価値があるとみなされていたりすることは含意しないとはいえ、これらの表現が技術的に可能かどうかという点についてはデジタルゲームがソフトウェアであるゆえ分岐は容易だし、さらに小説や映画のような他媒体を内包しうる。 これらの小説的、映画的とされる表現はデジタルゲームならではの特徴ではないはずだ。

だとすると何が固有の特徴なのか。 表現する側とそれをプレイ行為を経て受容する側とを分けたとき、デジタルゲームはある意味で演奏芸術でいうところの奏者と鑑賞者の両方をプレイヤーが兼ねている。そしてそもそも媒体の定義としてコンピュータソフトウェアで実装されたゲームであることから、他のものよりずっと高頻度にプレイヤーとのインタラクションが生じる。また、デジタルゲームの多くは作品の虚構世界をもち、ゲームプレイメカニクスとある程度整合性が取られているものが多い。ゲームプレイメカニクスはプレイヤーに対して解くべき課題を提示して、とるべき行動とその評価値を制約する1。 これらふたつの特徴から、プレイヤーのゲームプレイが虚構世界で進む物語に影響を及ぼすことがデジタルゲームの物語表現の特徴的なところで、その大きさや頻度、プレイヤーがどう受容するかなどがその価値に影響するのではという仮説が生じる。

たとえば、選択肢分岐のアドベンチャーゲームと比べるとダークソウルは明示的な選択ポイントは少ないが、一方で虚構世界に介入できる機会が大なり小なり膨大にある。極端な話、出会ったNPC全員を殺害することは可能で、その機会はプレイヤー側にほぼ任されている。その結果、便益も不利益も生じるので全く影響がないわけではない。また、あるボスと戦って勝たなければ進まないストーリーもある。これはゲームプレイの結果で判断される意味でここでのデジタルゲーム的物語といえるのではないか。

私自信は現状、こうした介入とそれに対する反応の系列をプレイヤーが認知して物語が受容される点がデジタルゲームの媒体上の特徴(制作者にとって活用できる点)だと捉えている。目下の興味でしかないが、そうした内的に生じるものを物語とするなら、どうやってそれを観測できるか。どうやって複数の異なる作品を比較可能なテキストの集合として扱えるようにするか。このあたりについて簡単に実験してみたい。

ナイーブに思い浮かぶのはプレイヤーの行動とそれに対する結果の事実の羅列を書き起こすというものだ。しかしこれは明らかに問題がありそうだ。 たとえばダークソウルの場合にそのような記録を取ってテキストに変換したとして文芸的な意味でどの程度優れたものなのかというと、そもそもテキストに変換する部分が表現に影響を与えるだろうし比較としてはこの時点では意味がないかもしれない。

とはいえ技術的な観点からも試してみたい。 もしプレイログを詳細に記録して出力して、LLMで読みやすくしたとして、読み物としてはプレイヤー自身にとっても他者にとっても面白いものになるだろうか。

シミュレーションとしての性質が強く、プレイヤーの行動をあまり制約せずやれることがやれることが多く、またプレイヤーの行動に対する反応があること、つまりプレイヤーがゲームプレイにより虚構世界に介入することが可能でその程度が高いゲームを考える。このような性質がある作品ならばゲームプレイの事実のデータは細かく高品質になると期待できるからだ。

ちょうど今、“Kingdom Come Deliverance” をプレイしていて、この作品はまさにそのようなものだ。自由行動が多いオープンワールドRPGであり、会話における明示的な選択肢による分岐もあるものの、多くはプレイヤーの課題の解き方(必要なものを盗む、殺して奪う、買う、無視する)によって虚構世界に介入できる。

印象に残っているクエストは、鍛冶屋同士のけんかを解決するため、双方が作った甲冑を着て試合を行いその勝敗で判断しようというものだ。試合前に相手側の甲冑を盗むことで試合自体をなくすことも可能だが、この文脈で面白いと思ったのは、八百長試合にするも真面目に戦うもよしで付いた側によって試合での課題が変わるところと、しかしそれを実現するには戦闘のメカニクスのうえで上手くプレイするしかないというところだ。下手なプレイをすると思ったとおりの結果にはならない。本編の大きなプロットを動かすわけではないが、ゲームプレイ自体が報酬やその後の人物の関係性を変えうる事例だった。

さて、どうやってやるか。KCD1はもう中盤以降という状況なので、できれば2に対してMODを開発してはじめからやってみたい。KCD1も2もCryEngineであり、MODツールキットが公式に提供されているようだった。たぶんほとんどのことはLuaでスクリプト書けば事足りるかなと思ってはいるものの、Gemini 2.0のDeep Researchの結果 も併せて実装プランを立ててみよう。

Footnotes

  1. ただしそれらふたつの層の間の関係がそうであるべきかというのは別の議論なのかもしれない。整合性が高いほうが良いとされるのは “Ludonarrative Dissonance” の議論のように合意されていそうではあるが、ゲームとして面白いとプレイヤーが感じるならば良いという立場も全然わかる。